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・DM史:もう一度伝説を(前編)
輝きのひとかけらだけが、記憶の片隅に転がっている。
■2014年5月
キリコ-M期の終焉を機にほとんど引退していたような状態だった俺は、2年前のレジェンドCSを思い出していた。
いわゆるプロや競技というのは、観客ないしファンがいてこそ成り立つものだ。当時の俺はそう思っていた。
その点からいえば、当時の競技DMは惨憺たるものだった。小規模から大規模までCSが乱立し、けれど誰も結果を体系的にまとめていない。誰が優勝したのか分からない。どの選手が強いか、誰も知らない。そんな状態。
「CSの希少性が失われる」という指摘は現実化していた。
プレイする分には何の問題もない。数が増え、むしろありがたいぐらいだ。
だが、競技DMに対して真剣に取り組む層は違和感を持ち始めていた。勝ったところでゲーム機を貰って終わり。不満に至るほどの要素ではないにせよ、彼らは物足りなく感じていた。
まったくのところ、俺も同じ気分だった。ひどいときには自分が参加していたCSの優勝者も知らないまま帰る日々。情報へのアクセスの不便さゆえに、勝利者に対する注目度は大幅に減っていた。
そこで無い知恵を絞ってひねり出した案が、ランキングである。
元々このシステムは「誰が勝っているかさっぱりわからないから可視化してみようぜ」程度の着想から始まったもの。転じて成績を記録することにより選手に満足してもらう副次的な効果も出たものの、最初はそこまで考えていなかった。
■2014年9月5日
それから4か月。紆余曲折は他の記事に譲るとして、DMのCS史上初のランキング制度が立ち上がった。
俺は、この制度の設計を進めるうちに一つの事実を確信していた。
もう一度レジェンドCSをやれる、と言う確信である。
ランキングによってプレイヤーを選出し、第2回レジェンドCSを行う。俺の中では、それが最終目標になっていた。そうなると、達成すべき中間目標は2つ。
①チームΦに継承を認めてもらう
②主催することに違和感のない実績を積み上げる
①は当然のことだ。彼らに許可を取らずしてやるわけにゆかない。
そうなると、彼らに認めてもらうためにも②が必要になってくる。まさかいきなり行ってやらせてくれと頼むわけにもいかないだろう。
おまけにレジェンドCSは、開く側にも資格がいる。即ちこれまた②だ。それなりの実績を積み上げていなければ、レジェンドCSは「よくわからないやつが一人で盛り上がっているだけのイベント」に過ぎない。
競技プレイヤーの上位層に納得してもらうだけの材料をそろえる必要があった。
だが最も困難だったのはチームΦに出会うこと。殆どのプレイヤーは、引退すると連絡がつかなくなる。まだプレイしているかどうかも定かでない集団を探し出すことほど難しいことはなかった。
おまけに目標は立てたものの、これをクリアしたからと言ってレジェンドCSを開催できる保証は何もない。
それでも、やるしかなかった。
■2015年9月
そうした事情をもとに、我々は史上最大の個人戦の開催告知へ踏み切ることになる。
このタイミングでの発表となった背景には、技術の確立があった。
直前の8/22-23に行われた、第6回静岡CS。このイベントで、ようやくオンラインペアリングと中継の実用化に目途がついたのだ。
既に遊戯王では当たり前に行われていたものだったが、運営技術的に4年以上遅れていたデュエルマスターズでは画期的だった。特にオンラインペアリングの時短効果は高く、大型個人戦の運営は今後この技術ありきになるだろうと感じた。
実際にその後、オンラインペアリングの効果を目の当たりにした多くのイベントでこの技術が使われるようになっていく。しかし、それは同時に俺個人の負担の増加を意味していた。
■2016年1月9日
そして翌年。俺はオンラインペアリング導入作業の為、綾瀬にいた。そして、イベント終了後の打ち上げで遭遇したのである。チームΦに。
いくらなんでも出来すぎだろ、と言うのが率直な感想だった。機が熟したら伝手を頼って探し出してもらおうと思っていた矢先である。聞けば、この日の主催者がイベントの司会を頼もうと引っ張り出してきたとのこと。
彼らの方も別にプレイを辞めたわけではなかったらしく、運営を離れただけという雰囲気だった。
流石に打ち上げ中にレジェンドの話を振るわけにもいかず、聞けたのは帰り際。
やってもいいですか、と聞くと。
いいよ、と言う。
先方は俺のことを知っていて、「レジェンドらしい参加条件にすること」「営利を目的としないこと」の2つを条件に引継ぎを許可してくれた。これまでも引き継ぎたいという人間はいたが、大体が営利目的だったので断っていたという。
見ず知らずの俺に許可を出してくれたのは、きっと俺が知らないところで信頼を得ていたからだろう。自分が今までやってきたことに対して、ようやく少し報われた気がした。
■2016年10月
ここから2016年の暮れにかけ、断続的に打ち合わせを重ねた。参加資格や運営メンバーを詰めていく。
開催を認めてもらえたことで半分仕事を終えたような気になっていたが、すぐにそれが間違いだったことに気づかされた。というのもレジェンドCSの成立要件がぶっ飛んでいたからだ。
俺はどうしても、関東の伝統を引き継いで予選から決勝まですべて2本先取でやりたかった。定員は64人だから、合計でマッチを9回戦。普通の会場では、閉場までに終わらないのが目に見えている。
スタッフも足りなかった。恐ろしいことに、運営スキルを持つ知り合いのほとんどがレジェンドの出場要件を満たしていたのだ。スタッフとして来てくれとは言えない。
そして何よりも問題だったのが出場者である。出場要件に日本一経験者やGP優勝者と書いたはいいものの、そもそも彼らは来てくれるのだろうか。
■2017年1月
だが驚いたことに、これらの問題は解決しつつあった。
会場は、地元のカードショップが協力してくれることになった。開店前、俺がオーナーのインタビューを取らせていただいた店だ。以前に宣伝してもらったのだからと、深夜どころか翌朝までの営業を宣言してくれた。
運営陣には、かつて最大の個人戦で俺を支えてくれた連中が再び集まってくれた。更に、関東CSで司会進行を務めたチームΦの人間までも協力を申し出てくれた。賞品となるストレージやプレイマットのデザインも、知人のプロデザイナーが引き受けてくれた。
そして、最も懸念していた出場者には…日本一王者やGP優勝者、ランキング上位者たちが名を連ねた。
事ここに至り、俺ははっきりと理解した。レジェンドCSは多くの選手の協力によって成立しているイベントであると。中には義理で来てくれた選手もいただろう。
いや、選手だけではない。会場を提供してくれたオーナーも、集まってくれた運営チームもそうだっただろう。このイベントから"義理"という要素を取り去ったのなら、後にはほとんど何も残らない。このことは俺に、「誰もがこのイベントを楽しみにしている」という極めて単純な事実を伝えていた。
2012年、第5回関東CS。あの張りつめた空気に触れてからおよそ5年。
積み上げてきたもの全てが絡み合い、一つの意思へとまとまっていく。
そうだ。
もう一度伝説を。
輝きのひとかけらだけが、記憶の片隅に転がっている。
■2014年5月
キリコ-M期の終焉を機にほとんど引退していたような状態だった俺は、2年前のレジェンドCSを思い出していた。
いわゆるプロや競技というのは、観客ないしファンがいてこそ成り立つものだ。当時の俺はそう思っていた。
その点からいえば、当時の競技DMは惨憺たるものだった。小規模から大規模までCSが乱立し、けれど誰も結果を体系的にまとめていない。誰が優勝したのか分からない。どの選手が強いか、誰も知らない。そんな状態。
「CSの希少性が失われる」という指摘は現実化していた。
プレイする分には何の問題もない。数が増え、むしろありがたいぐらいだ。
だが、競技DMに対して真剣に取り組む層は違和感を持ち始めていた。勝ったところでゲーム機を貰って終わり。不満に至るほどの要素ではないにせよ、彼らは物足りなく感じていた。
まったくのところ、俺も同じ気分だった。ひどいときには自分が参加していたCSの優勝者も知らないまま帰る日々。情報へのアクセスの不便さゆえに、勝利者に対する注目度は大幅に減っていた。
そこで無い知恵を絞ってひねり出した案が、ランキングである。
元々このシステムは「誰が勝っているかさっぱりわからないから可視化してみようぜ」程度の着想から始まったもの。転じて成績を記録することにより選手に満足してもらう副次的な効果も出たものの、最初はそこまで考えていなかった。
■2014年9月5日
それから4か月。紆余曲折は他の記事に譲るとして、DMのCS史上初のランキング制度が立ち上がった。
俺は、この制度の設計を進めるうちに一つの事実を確信していた。
もう一度レジェンドCSをやれる、と言う確信である。
ランキングによってプレイヤーを選出し、第2回レジェンドCSを行う。俺の中では、それが最終目標になっていた。そうなると、達成すべき中間目標は2つ。
①チームΦに継承を認めてもらう
②主催することに違和感のない実績を積み上げる
①は当然のことだ。彼らに許可を取らずしてやるわけにゆかない。
そうなると、彼らに認めてもらうためにも②が必要になってくる。まさかいきなり行ってやらせてくれと頼むわけにもいかないだろう。
おまけにレジェンドCSは、開く側にも資格がいる。即ちこれまた②だ。それなりの実績を積み上げていなければ、レジェンドCSは「よくわからないやつが一人で盛り上がっているだけのイベント」に過ぎない。
競技プレイヤーの上位層に納得してもらうだけの材料をそろえる必要があった。
だが最も困難だったのはチームΦに出会うこと。殆どのプレイヤーは、引退すると連絡がつかなくなる。まだプレイしているかどうかも定かでない集団を探し出すことほど難しいことはなかった。
おまけに目標は立てたものの、これをクリアしたからと言ってレジェンドCSを開催できる保証は何もない。
それでも、やるしかなかった。
■2015年9月
そうした事情をもとに、我々は史上最大の個人戦の開催告知へ踏み切ることになる。
このタイミングでの発表となった背景には、技術の確立があった。
直前の8/22-23に行われた、第6回静岡CS。このイベントで、ようやくオンラインペアリングと中継の実用化に目途がついたのだ。
既に遊戯王では当たり前に行われていたものだったが、運営技術的に4年以上遅れていたデュエルマスターズでは画期的だった。特にオンラインペアリングの時短効果は高く、大型個人戦の運営は今後この技術ありきになるだろうと感じた。
実際にその後、オンラインペアリングの効果を目の当たりにした多くのイベントでこの技術が使われるようになっていく。しかし、それは同時に俺個人の負担の増加を意味していた。
■2016年1月9日
そして翌年。俺はオンラインペアリング導入作業の為、綾瀬にいた。そして、イベント終了後の打ち上げで遭遇したのである。チームΦに。
いくらなんでも出来すぎだろ、と言うのが率直な感想だった。機が熟したら伝手を頼って探し出してもらおうと思っていた矢先である。聞けば、この日の主催者がイベントの司会を頼もうと引っ張り出してきたとのこと。
彼らの方も別にプレイを辞めたわけではなかったらしく、運営を離れただけという雰囲気だった。
流石に打ち上げ中にレジェンドの話を振るわけにもいかず、聞けたのは帰り際。
やってもいいですか、と聞くと。
いいよ、と言う。
先方は俺のことを知っていて、「レジェンドらしい参加条件にすること」「営利を目的としないこと」の2つを条件に引継ぎを許可してくれた。これまでも引き継ぎたいという人間はいたが、大体が営利目的だったので断っていたという。
見ず知らずの俺に許可を出してくれたのは、きっと俺が知らないところで信頼を得ていたからだろう。自分が今までやってきたことに対して、ようやく少し報われた気がした。
■2016年10月
ここから2016年の暮れにかけ、断続的に打ち合わせを重ねた。参加資格や運営メンバーを詰めていく。
開催を認めてもらえたことで半分仕事を終えたような気になっていたが、すぐにそれが間違いだったことに気づかされた。というのもレジェンドCSの成立要件がぶっ飛んでいたからだ。
俺はどうしても、関東の伝統を引き継いで予選から決勝まですべて2本先取でやりたかった。定員は64人だから、合計でマッチを9回戦。普通の会場では、閉場までに終わらないのが目に見えている。
スタッフも足りなかった。恐ろしいことに、運営スキルを持つ知り合いのほとんどがレジェンドの出場要件を満たしていたのだ。スタッフとして来てくれとは言えない。
そして何よりも問題だったのが出場者である。出場要件に日本一経験者やGP優勝者と書いたはいいものの、そもそも彼らは来てくれるのだろうか。
■2017年1月
だが驚いたことに、これらの問題は解決しつつあった。
会場は、地元のカードショップが協力してくれることになった。開店前、俺がオーナーのインタビューを取らせていただいた店だ。以前に宣伝してもらったのだからと、深夜どころか翌朝までの営業を宣言してくれた。
運営陣には、かつて最大の個人戦で俺を支えてくれた連中が再び集まってくれた。更に、関東CSで司会進行を務めたチームΦの人間までも協力を申し出てくれた。賞品となるストレージやプレイマットのデザインも、知人のプロデザイナーが引き受けてくれた。
そして、最も懸念していた出場者には…日本一王者やGP優勝者、ランキング上位者たちが名を連ねた。
事ここに至り、俺ははっきりと理解した。レジェンドCSは多くの選手の協力によって成立しているイベントであると。中には義理で来てくれた選手もいただろう。
いや、選手だけではない。会場を提供してくれたオーナーも、集まってくれた運営チームもそうだっただろう。このイベントから"義理"という要素を取り去ったのなら、後にはほとんど何も残らない。このことは俺に、「誰もがこのイベントを楽しみにしている」という極めて単純な事実を伝えていた。
2012年、第5回関東CS。あの張りつめた空気に触れてからおよそ5年。
積み上げてきたもの全てが絡み合い、一つの意思へとまとまっていく。
そうだ。
もう一度伝説を。
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