(´・ω・`)厳しい映画だった
見た人向けに話をしますけど。
あらすじは、何を書いても嘘になる気がするので書きません。見て。
■現実と妄想の境目
この映画のストーリーの一部は、主人公であるアーサーの妄想です。どこからどこまでが妄想なのか、人によって解釈が別れると思うので、自分の考えを書いておきます。
解釈、いろいろパターンがあると思うんですね。
・ラストシーン以外は妄想
・笑っているシーン以外は妄想が含まれている
・殺人シーンは妄想
とかとか。
僕は、「ソフィーとの親密な関係性を示すシーン」「ソフィー(同じフロアに住んでいる黒人女性)の部屋に侵入して追い出される〜ラストシーン」が妄想じゃないかなーと思ってます。
追い出された後、パトカーのサイレンっぽい音が聞こえてたと思うんですよね。あのタイミングで逮捕されてたんじゃないかなぁ。
書類の窃盗/住居侵入ぐらいなら微罪なので、障害持ちだったこともあってアーカムGO。で、話は10年後ぐらいに飛んで、ラストシーンを迎えると。カウンセラーの髪が白くなってたので、直後の場面ではないと思うんですよね。
取り敢えず、その前提で話を進めます。
■アーサーは何を求めていたのか?
僕は、社会的な何かしらの特別さを求めていた…と思っています。
アーサーが妄想するものって全部、なんかしら特別なポジションなんですよね。有名コメディアンであり、マレーないしウェインの息子であり。どれも地位です。
ただし、ここで言う「特別」ってのは、素晴らしい地位を手に入れたい!みたいな、承認欲求的な話ではありません。アーサーが本質的に望んでいるのは、「自分の現実認識を世界に受け入れさせたい」、つまり「自分は一切変わらないまま世界に受け入れられたい」です。
んで、彼は、目的を達成する=なんらかの地位を獲得するための方法として、「弱者として同情されること」を選んでいます。
例えば、序盤の職場のシーン。
社長に呼ばれて、社長室に行くじゃないですか。あの場面でアーサーは、廊下を曲がって人の目がなくなった途端に笑うのを止めている。本人は「障害があって笑いをコントロール出来ない」と言っているのにね。自分の意思で止めているんです。
同じく序盤、マレーの番組に出ることを妄想するシーンもそうです。
妄想の中の彼は、売れているコメディアンじゃない。母親と暮らしている冴えない男のままです。けれど、なぜだかマレーには受け入れられ、「もし君が息子だったら…」と言われる。
アーサーは弱者を演じ、強者からの同情を獲得することによって、目的を達成しようとしているわけですね。哀れな人間だから特別なんだ、義務から解放されているんだ、社会の中で自分の意思を押し通せるんだ。そういうスタンスなんです。
だから冒頭、不良に滅多打ちにされても無抵抗なんですよ。アーサーが認識できている「社会」の中に、不良はいないから。自分の意思を押し通すべき対象ではないから。
自分自身が認識できている現実の中で特別でありさえすれば良くて、認識できていない現実で惨めな思いをしても気にならないんです。だって自分は特別なんだから、「認識できている現実」の方で埋め合わせができるんだから。
あのシーン、この映画で一番理不尽じゃないですか。本当になんの因果関係もなく、ただそこにいたというだけでボコボコにされる。
けれど、アーサーは抵抗しないんです。警察を呼ぶこともせず、そのまま帰っちゃう。で、社長に怒られる。
社長に怒られるシーン、とても分かりやすいですよね。アーサーは自分のことを「不良にボコられた哀れな弱者」だと認識しているから、同情されると思ってる。だから警察も呼ばずに帰っちゃったし、お店にも連絡していない。社長にも事情を話していない。
憐れまれて優しくされると思ってるから。警察を呼んで、店に連絡して、社長に話すだなんて、そんなことをちっとも考えちゃいない。強者は弱者に優しくして、保護を与えるべきだから。全部やってくれるでしょ?早く惨めな俺を何とかしてよ。今すぐに。
実際、ランドルには事情を普通に話してるわけですよね。「ひどくやられたな」って心配されてるでしょ。
自分より格上の強者ではない、ただの格下の同僚であるランドルからは同情を買う必要がないので、普通に喋っているんです。
同僚なのに格下、っつーのがポイントですね。アーサーには、同格の人間は存在しません。格上か格下かの二択です。
格上は格下に優しくしなきゃね。ちゃんと事情も話さなきゃ。
地下鉄の中のシーンも同じですよね。
格下の不良からは同情を買う必要がなかったから、抵抗しなかった。ところが、格上であり、自分に同情し保護を与えるべき存在であるエリートたちから絡まれると、逆上して殺す。…という妄想をしてしまう。
(あのシーン、7発しか残っていないはずのリボルバーを8回撃っているので、おそらく妄想なんですよね。画面に出ていないところでもっと弾丸をもらったり買ったりしたのかもしれませんが、ランドルからもらったのは袋の7発+弾倉の1発だけだから、映画的には残弾7発の理解で良いかなと)
マレーもウェインも同じ。
強者であるにも関わらず、弱者である自分を保護しなかった。自分を特別扱いしなかった。だから殺した。
後半、家を訪問してきたランドルを殺した(という妄想をした)のはちょっと違って、これは格下への反乱の対処ですね。
格下だからちゃんとコミュニケーションをとってやっていたのに、不良に襲われたこともちゃんと話してやったのに、格下のくせに、自分がクビになるよう仕向けた(ように見えた)から殺した。
もちろん、ランドルはそんなこと考えてないですよ。彼は、アーサーのことを同格の人間として見ていました。だから銃をあげたし、訪問したときも「なあ、口裏合わせようぜ」と提案する。強制じゃなくて、あくまでお願い。
母親殺しも同じ、格下の反乱への対処です。
自分に保護されている格下が、実は反乱を起こしていたから、逆上して殺した。
…と言うような感じで、アーサーの中では理屈が付いていることでしょう。
この辺、解釈に異論はあると思います。でも、僕は上記のように考えています。
じゃないと、ランドルに事情喋ってて社長や店には言うてない理屈がつかんし。
ただ。
アーサー、自分を変えようなんて1ミリも思ってないですよね。現実を見る気も受け入れる気もないじゃないですか。なんか知らんけどありのままの自分を周囲が受け入れてくれる、そんな妄想ばっかでしょ。
トーマス・ウェインとトイレで会話してるシーンが典型的ですよね。一方的に自分の都合を並べ立て、相手の主張は聞く耳持たず。
自分がそう思うから、そうしろ。それだけですよね。彼の言っていることって。
格上と格下と、自分の定めたルールに則って接しているように見えて、その実はただ相手を支配しようとしているだけです。双方向のコミュニケーションなんてする気がない。
自分すら、騙しているわけですね。その現実に気づいた時、彼はジョーカーになったわけです。
■ミクロとマクロ
無論、アーサーの過去を忘れているわけじゃないですよ。実は養子で、虐待されてて、脳に障害があって。笑いの発作が詐病とすると、他人との距離感をうまく取れない部分が障害由来なのかもしれません。
それでも、病気の母親を抱えてあの年齢まで真面目に働いてきた。精神病院に入れられていたことはありましたが、犯罪者ではなかった。
同情すべき、気の毒な人物だと思います。ランドルやゲイリーも、きっとそう思っていたでしょう。
アーサーに何らかの才能があったら、全然違っていたでしょうね。人の話を聞かない、という点ではマレーもアーサーに対してそうだし。
もしマレーの才能がアーサーにあったら、彼はジョーカーにならずに済んだでしょう。
ただ仮にそうだとしても、じゃあどうするの、という。
だってそんなの、全部Ifルートの話でしょ。もしこうだったら、とか言っても現実は変わらない。
仮にあなたが社長だとして、小児病棟に拳銃を持ち込んだピエロを雇っておけますか?
仮にあなたがウェインだとして、自分の息子に危害を加えたわけのわからんやつの話を聞いて、受け入れてあげられますか?
仮にあなたがマレーだとして、ド下手なコメディを披露したやつに「君が本当の息子だったら…」なんて声をかけてあげられますか?
そりゃ、マクロ的にはそうすべきですよ。理屈から言えばね。誰かがアーサーに優しくしていれば、あるいは福祉の予算が削られなければ、きっと彼はアーサーのままでいられた。今まで大丈夫だったんだから。何とかやってきたんだから。
そりゃそうです。みんなそう思いますよね。
でも、ミクロな話だと変わるでしょ。登場人物のだれかと自分を置き換えてみて、想像してみたら。
上記したような、理屈から導き出される正しい行いができますか?きっと、できませんよね。
それって、社長と同じであり、ウェインと同じであり、マレーと同じであり、そしてアーサーと同じなんです。
社長やウェインやマレーが違う行動を取っていれば、あるいはアーサーが違う行動を取っていれば、話の結末はまた違ったでしょう。だけれど、んなこと出来ないんですよみんな。
そのことを浮き彫りにしたという点において、すげぇ映画だなーと思います。
これね。こういう感想文を書く人間が、つまり社長やウェインやマレーのような人間は世の中に実在することを証明してしまったことが、この映画のすごさだなと思います。
もちろんこの感想文、結構ズレてますよ。
こっちで指摘されている通り。先入観込みで見たんやろな感が否めません。
だけど、んなこた問題じゃないんです。この映画は、先入観込みでアーサーを見るような人間は映画の中だけの存在ではない、フィクションではないということを明示したわけです。
仮に、現実にアーサーのような人間がいるとしたら、そんな人間と社長やウェインやマレーのような人間が出会ってしまったら、そして福祉予算が削られたら。
(日本において生活保護の基準額が現在進行形で引き下げられつつあるのは、みなさんご存知でしょう)
どうなってしまうんでしょうね。
アメリカのこの対応、笑えません。それほどの力を持った映画だと、見終わった今になっては思います。
■で、どうすれば良かったんだよ
スゲェ身もふたもない結論ですが、今回の話って福祉予算がきっちり出てれば済んでたわけじゃないですか。
生活が苦しかったから、アーサーの母親はウェインに手紙を出したんでしょ。で、手紙をきっかけにアーサーはウェインと出会ってしまった。
マレーの件も同じで。多分アレ、仕事をクビになって、もうコメディアンになるしか道がないから、ステージに立ったんですよね。仕事をしている間はステージに立ってなかったわけでしょ。アーサーにとって「コメディアンになりたい」っつーのは特別な立場を得るための方法の1つにすぎず、目的ではなかったから、ピエロの仕事があるうちはステージに立つ必要がなかった。
これまでジョーカーにならずアーサーとして生きてきたってことは、本当は彼って妄想だけで満足できる人間だったってことですからね。現実を見て見ぬ振りして。周りに疎まれながらも。
それが、クビやら隠し子騒動やら番組出演やらによって強制的に現実と向き合わされ、んで壊れちゃった。
そりゃ、現実と戦わなければ幸せにはならんすよ。誰しも。
けれど、アーサーは現実を受け入れて変わろうという気が無いんだから、もうどうしようもないじゃないですか。自ら弱者であり続けることを選択しているんだから。
なんで、マジで身もふたもない結論なんですけど、障害者年金+障害者雇用、みたいなんで緩やかに社会と接続しつつ困窮しない程度のお金を支給できていればアーサーはセーフだったし。
多分、暴動起こしたピエロ連中も、政治がきちんとしてりゃあんなんならんかったでしょ。
(まあ、ウェインやマレーみたいな連中が、福祉カットを叫んでたんだろーけどな…)
どうもならんストーリーですよね。誰も正しくない。
■余談
・ソフィーの生死
最初に書いた通り、生きていると思っています。カウンセラー同様、アーサーに対して否定の言葉や、彼の立場を侵害するような言葉を投げかけていないので、ふーんで済んでいるんじゃないかな。
・ゲイリー(小人)との関係
ランドル殺害後、ゲイリーを逃がすシーンがあるじゃないですか。アレ、別にアーサーの誠実さを表してるとかではない、と思うんですよ。
だって、出て行こうとするゲイリーをおどかすでしょ。あの動作って「俺は特別な人類なのでお前の生死の権利を握っている」っつーアピールじゃないですか。
つまり、普通に接してくれてたゲイリーのことを「格下」とみなしていることが分かるシーンなんですね。そうじゃなきゃ、逃がすだけで良いんだから。
ぐらいかな。
これ、もっと若い時に見ていたら、また違った感想を抱いただろうなーと思います。一緒に見に行ったchangはなんかアーサーにそこそこ共感していた風情がありましたし。「誰も俺の話なんか聞かない!」とかね、あのくだり。
あそこもね。分かるんだけども。
確かにそうなんだけど、じゃあアーサーっつー人間が正しいかって言うと別にそんなことないからね。ぶっ壊れた時計だって1日に2度は正しい時刻を指す、みたいなアレ。
アーサーだってカウンセラーの話とか、まともに聞いちゃいないからね。「来週からここ閉鎖やで」つって、危機が自分の身に及ぶ段になって初めてちゃんと聞く。
アーサー、社長に対してもそうだよね。看板ぶっ壊したときは事情を説明するでもなくヘラヘラ笑ってただけなのに、クビになりかかったときは必死こいて謝ってたでしょ。全然、態度違うじゃん。
繰り返しますけど、アーサーの半生には同情すべきものがありますし、マレーやウェインだって正しい人間かというと怪しいですよ。
だからこそ、映画の終盤は暴力の嵐になるわけで。誰もが間違っているのに誰も変わる気がないなら、もう戦うしかない。
スゲェ映画だったね。
僕にとっては、アーサーみたいなタイプのどうしようもない人間をものすごく丁寧に描いていたという点が最高でした。喋ることいっぱいある。
「格上と格下」「保護されるべき弱者」の概念とかね、どっかで言いたかったので。満足した。
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