(´・ω・`)怪奇オリンピック





墓場鬼太郎はどのエピソードも好きなんだが、特にこのアホな男は良い。
鬼太郎とねずみ男、2人それぞれの話が絡み合っていくのだが、今回は鬼太郎側から。


■あらすじ
水木さがるという売れぬ漫画家がいる。彼の元に鬼太郎が「あの世保険」を売り込みに来た。あの世保険とは名前通り、あの世での幸福を保証する保険である。

そんなものあってたまるか、と追い返すのが常人だが水木は違った。
この男、怪奇なものが好きなのである。ましてや「今ならおまけに怪奇オリンピックのチケットをつける」と聞いては買わずに居れない。その日の飯にも事欠く貧乏暮らしだが、買った。

さてチケットを買えば使わねばならぬ。しかし使ってみると、どこからともなく声が聞こえるではないか。
曰く、怪奇オリンピックは地獄でやるのだと。地獄へゆくには死なねばならぬ。そして魂が地獄へ去ることで空になった水木の体を声の主が乗っ取るというのだ。

水木は焦ったが時すでに遅く、気づけば彼は奇妙な場所にいた…。


■地獄の描写
墓場では幾度か地獄が描写される。それは荒涼とした砂漠として描かれる。そこにはほとんど何もない。飢えや渇きもない。何せ死んでいるのだから、道理である。

後年、ゲゲゲで描かれる地獄は仏教的世界観を底辺としており、血の池地獄などの描写がある。だいたいの読者に馴染みがあるのはこれだろう。
人によってはダンテの神曲にて描写されたものを思い浮かべるかもしれない。漏斗状の地層の最下にサタンが幽閉されている地獄を。

しかし墓場の地獄はそのいずれとも違う。ただ何もない。
たまに動物とも植物とも、はたまた生物とも違う何かがぬったりと動いていくのを見るのみである。

そう、動いている何かがいるのだ。亡者ではない。オリンピックの出場者である。
目玉の親父の説明によれば、以下の通りだ。

・歩く植物
・長さが10キロくらいある名もない生物
・千年に一歩歩く鳥
・ちょっとした島くらいある何か

そして目玉曰く、目玉や水木もまたオリンピックの出場者なのだ。オリンピックは参加することに意義がある。見物しながらにして参加するのだ。

これらの生物は互いに干渉するでもなく、ただ動いている。意思を疎通する様子もない。
自分が何をしようとなんの影響も与えず与えられず、ただ無為に時が過ぎていく。確かに、これは地獄なのだろう。

そのことを悟った水木は地獄から帰ろうとする。そこに目玉が声をかける。

「もし あなた方は時というものから解放されているのです 何歳だとか何十歳だとかいうことを気にしなくても良い状態になられたのです あなた方は不老不死になられたのですよ」

これは極めて重要な指摘である。時間的な制約から逃れて生きる(死んでいるのだが、意識は存続しているのだから生きるといっても差し支えないだろう)ことができているわけである。これはだいたいの人間が望むものだし、更に言えば怪奇なことであるのだが、けれど水木は気づかない。

そして水木はなんとか家まで戻るのだが、誰も彼の存在には気づかなかった。彼は死んで幽霊となったのである。
結局、水木はオリンピックの続きを見るために地獄へ戻る。彼の最後の言葉は示唆に富んでいる。

「人言は飯を食うということのために一生の全部を費やすのです。その安全のために神経をすり減らし、誰も生きがいのある一生を送ることが出来ないのです。今ここで私たちは食うということから初めて離れることが出来たのです。従って初めて生きがいを感じたのかもしれません。
人生はただ食って死ぬるだけのものに過ぎませんからね」
(※もう一人オリンピックのチケットを使って死んだ男がいたので、私たちという表現が出ている)

我々が日々の生活に費やす金を稼がずとも生きて行けるとなれば、どれだけ豊かな生活が送れようか。
我々が時から放たれ歳を取らぬとすれば、どれだけ豊かな生活が送れようか。

水木は死んでしまったが、しかし豊かな生活を手に入れたわけである。一方の水木を乗っ取った何者かは違う。水木が滞らせていた金の返済に追われ、必死に働く。そしてついには地獄へ帰ろうとする。だが無駄なことだ。すでに地獄には、彼の代わりに水木がいるのだから。
偽水木の描写は、水木の妻の一言で締めくくられている。

「さあ死ぬまでうんと働くのです。この世は戦いよ」



死は福音なのだろうか?生きていることは幸福なのだろうか?
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