(´・ω・`)シャドバチーム解散の話が立て続けに流れてくるね





結論:良い環境とは、例えばプレイヤーが環境の変革に参加できるようなもの、即ちプレイヤーを主体とした物語を生成可能な状態を指す。
理由:プレイヤーはプレイを通してゲームの展開を個人的な体験に置き換え、固有の物語として再生産することを求めているから。

思考のまとめメモぐらいの勢いなのでアレだが。


■良い環境とは、つまり
良い環境と言う極めて抽象的な物言いについて、最もよく言われるのは「自分が勝てた時代=良環境なんでしょ?」と言うものだ。読者諸兄も一度ならずこう考えたことがあるのではないか。
これは正解に近いと思う。正確に言うならば、正解の側面のうちの一つだと思う。

個人的な考えとして、良環境と言うのは以下だ。

・プレイによって各プレイヤー個人を主体とした物語を生成可能な状態

上の「自分が勝てる」というのはまさに「プレイによって各プレイヤー個人を主体とした物語を生成可能な状態」の一種だ。自分の考えを積み上げて勝つ、というのは物語そのものである。

上で側面のうちの一つと述べたように、無論物語と言うのはこれだけではない。例えば「最後のシールドから○○が飛び出て勝った」と言う体験もそうだ。
場合によっては、「決勝戦において最後の最後で興奮して殴ったがために負けた」という体験も…つまり、勝利を得ていない体験ですら物語として成立しうる。

プレイを通して各プレイヤー固有の物語を再生産することができる…つまり、プレイヤーにちょうど良い量の選択肢が与えられている環境。それこそが良環境と言えるだろう。
固有の物語の生産には、主体的な選択が欠かせない。


■良環境の構成要素
そしてこれらの例を見ると浮き上がってくるのは、必ずしもゲームの本質的な部分だけが環境に影響するわけではないという事実だ。上記の「決勝戦に~」というのが好例で、これはイベントがなければ発生しない体験である。つまりイベントの充実具合もまた、プレイヤーが感じる環境の良し悪しに影響を与えていると言える。

これが正しければ、「現環境が良いか悪いか」と言う点でプレイヤー同士の意見が頻繁に食い違う理由もまた説明できるだろう。各個人が固有の物語を再生産出来ているかどうかなんてのはおよそ主観に強く依存するもので、一般解はない。

多くのプレイヤーがカバレージなどに掲載してほしいと願うのもまた、同じ理由である。自分のための物語を得たいからだ。このあたりを突き詰めると、「ゲームプレイ(カバレージ)は物語」という主張に落ちるのだろう。これは「ゲームプレイはすべてをお膳立てられた創作代償行為」と言い換えても良いと思う。


■良環境でない、とは?
良環境について定義できたので、良環境でない場合についても理解が可能となる。
良環境でないとは即ち、以下となる。

・プレイによって各プレイヤー個人を主体とした物語を生成可能な状態

これはゲームプレイがマンネリ化した場合を指している。「何度やっても同じゲーム展開になる」場合などが当てはまるだろう。「先攻を取れば勝てる」と言われる状態などが好例だ。

先攻を取れるかどうかというのは運であるが、そこには「取れた/取れなかった」の2値しかない。たとえ運に大きく依存するとしても結果として起こる事象の選択肢が多ければ「最後のシールドから○○が飛び出て勝った」というような良い体験につながる。しかし、先攻を取れるかどうかについては、そうではない。
もう少し踏み込んでいえば「~~出来るかかどうかが全て」のような一般化した言い方が可能な状態は、固有の物語を生成不可能な状態と言える。

ただし既に述べたように、良環境かどうかというのはプレイヤー個人の主観、また周囲の状況に強く依存する。どんなにいいゲームだとしても周囲にマナーの悪い対戦相手しかいなければ、かつての遊戯王のようにクソゲーと称されることになる。


■それを踏まえて
なんでこんなことを急に書き出したかと言うと、このブログで唯一気に入っているDM古代史とかいう謎コンテンツに原因がある。

このあたりを真面目に書こうと思うと、どうしてもプレイヤーが求めるもの、書いて欲しいものに対する認識を言語化しておく必要がある。自分の話なんか適当にそれっぽく書いとけばいいんだが、他人の話となるとそうはいかなくなってくる。

去年ぐらいに話題になったナラティブも、突き詰めるとこの辺に落ちるんだろうな。

※書いといてなんだが自分でもあんまりまだすっきり整理できてない